更新日:2011年 7月 3日
利根川流域の山

目次

T)はじめに
U)前期50山の選定と出版
V)利根川流域の山へのとりくみ
W 利根川流域50山
X)利根川流域百山一覧表とイラストマップ
Y)その後の取組み
Z)今後の目標

※ 関連HP


T)はじめに  TOP

<なぜ利根川流域か?>
 我孫子市の北側には、悠々と東流して太平洋に注ぐ大河利根川がある。
利根川は古より坂東の歴史を育み、水害という試練を与えながらも古利根や手賀沼などの自然を多く残し、今なお私達の生活に深く密着している。
市内より見える山といえば筑波山や、空気の澄んだ日に遠望される富士山位であるが、利根川を遡れば流域には自然の山域が豊富に広がっている。
 

<利根川の源流はどこか…>
 宋旦の時代、利根川の水源は文殊山にあるといわれ、その奥にまつられた文殊菩薩の乳房からしたたりでる水が水源だと、明治中期までは信じられてきた。この文殊山の山名はいまは無いが、多分ススケ峰かその近くの大白沢山(1942m)あたりを指すものといわれる。
 明治以降に幾度かの水源調査が行なわれたが、本格的には昭和29年に群馬岳連が中心になって行なったもので、この時には1週間かかって大水上岳直下の雪渓に達したという。我々もこの説をとり、大水上山を最源流の山と位置付けしている。


U)前期50山の選定と出版  TOP
本表紙 崙書房発行 本表紙イラスト 続々50山
honhyoushi-mae.JPG (20781 バイト) honhyoushi-ron.JPG (20647 バイト) hon-illust.JPG (50276 バイト)
 

V)利根川流域の山へのとりくみ  TOP

 「いつそのこと、利根川流域の山を、片つぱしから登つてみないか」この一言から、私達の長い作業がはじまった。
当時、私達の我孫子登山倶楽部では、1988年に迎える創立十周年の記念事業をどのような内容のものにすべきかの検討が進められていた。何回かの論議のすえに、倶楽部十周年記念山行として利根川流域の山々を登るプランが企画され、さっそく調査が開始された。

 調査を進めていく中で、利根川の流域を末端から各支流の源流までそれぞれ一覧する「河川コード表」が建設省河川局にあることを、また克明な利根川流域図を水資源開発公団が作成していることを知り、それぞれ入手して、それをもとに候補となるべき山の選定にあたった。登るべき対象の山を50山とすること、この50山は利根川の各流域をくまなく網羅して選定すること、山行形態や山行時期については別途に設けられている山行企画委員会で検討すべきことなどを決め、候補として選出された「利根川流域主要山岳と標高」にまとめた126山がまずリストァップされ・それぞれの山をさまざまな角度から検討した。こうして最終的に決定した50山は、流域最高峰の日光・白根山(2578m)を筆頭とした2000m級の山が19山,平標山(1984m)を初めとする1500m以上2000m未満の山は21山、1000m以上1500m未満の山が荒船山(1423m)を含めた7山、1000m未満の山が筑波山(876m)を加えて3山であり、一番低い山は古賀志山(583m)である。

 またそれぞれの山が置かれている東西南北別の位置を見てみると、50山の東端は筑波山、西端は長野県境の四阿山(2354m)、南端は埼玉県境にある二子山(1166m)、北端は福島県との境の男鹿岳(1777m)だった。

 50山は、そこから流れ出る水の流れを各流域別にみてみると、烏川、吾妻川、赤谷川、湯檜曽川、片品川、渡良瀬川、鬼怒川、霞ヶ浦に注ぐ桜川などを通って利根川に合流していて、山々は群馬県,栃木県、茨城県の北関東の広い範囲に所在し、いくつもの山が県境の山だ。そして、源流からの水を各支流にあつめ、大きな拡がりをもって流れる利根川の流域面積は16,839.5ku(山地40%、平地60%)を占めている。

 利根川本流そのものの源流は、この記念山行でも登られた三国山脈の大水上山(1840m、大利根岳ともいう)直下から発して、我孫子市の北側をゆったりと流れて、犬吠崎付近の河口まで322kmの長い距離に及ぶ。

今から140年以前、安政5年(1858年)下総・布川(現在の茨城県相馬郡利根町)の医師・赤松宋旦は「利根川図志」を書いて利根川に関する事物・文物を記録した。その中で利根川の水源山や各支流の少しながら記述しているが、彼自身いわゆる上利根川)利根川上流部)については資料不足から後日を期したいと述べたまま未完に終わってしまった。その意味では私達のこの利根川流域の山への取組みは、先人の果たせなかった踏査行をあらためて辿り、再発見する試みでもあるといえよう。

 宋旦の時代、利根川の水源は文殊山にあるといわれ、その奥にまつられた文殊菩薩の乳房からしたたりでる水が水源だと、明治中期までは信じられてきた。この文殊山の山名はいまは無いが、多分ススケ峰かその近くの大白沢山(1942m)あたりを指すものといわれる。

 明治期になって最初の源流探査の試みは、明治27年(1894年)に群馬県が39名の調査隊を組織して行ったが、尾瀬ヶ原に抜けてしまい失敗に終わった。最初に水源を見たのは大正15年(1926年)で、群馬県調査隊の一行46名が大利根岳に登ったときのことである。(この調査隊の調査報告書ではピークを「大利根岳」としている。)

 くわしい利根川水源調査としては、昭和29年の利根川水源調査団30名の調査があげられる。この時は群馬岳連が主力となって実施しており、主要メンバーの中島喜代志氏(土合山の家管理人)に聞いたところによれば、彼はこの探検的調査隊に猟銃を持っていき、沢の奥ではボートに乗って遡り、一週間ほどかけて大水上山直下の雪渓に達したという。

1985年(昭和60年)10月の女峰山に始まった我孫子登山倶楽部創立10周年記念利根川流域50山山行は、予定より長く、1988年11月の赤城。黒檜山(1828年)をもって終了した。実際に登られた山は別表の通りであるが、最初に決定されたものとは2山ほど異なっている。その1つは、浅間山(2568m)であった。その理由は、浅間山噴火によって山頂周囲1kmへの登山禁止がなされていたことによるもので、そのために浅間山のそばの篭ノ登山(2227m)に代えた。あとの1つは榛名山だった。

これは榛名富士(1371m)より高い榛名・掃部ケ岳があったためであって、そちらに代えたものである。3年間にわたった50山山行は、山行回数を数えると42回(一度に2山以上の縦走山行は5回)にのぼり、その他に悪天候などで中途で引き返したり、試登を繰り返した回数を加えれば、50回以上の回数に達した。

一般にこれらの大多数の山は、西上州の山、上越国境の山、尾瀬周辺の山、奥日光の山、塩原の山、その他の山としては山岳案内書に載っているポピューラな山もあるが、中にはほとんどあるいは全然、山岳案内書や登頂記録集に現れない山もある。

 かくて、全山を登り終えた現在、強いてこれら50山の中で困難度の高い山をピックアップするなら、それは大倉高山と男鹿岳ということになろうか。この2山は、山そのものが取りつき難い位置にあり、しかも登頂路がはっきりしていないため、いきおい登るには幾度かの試登をつづけ、そして本登の際も沢遡行でしか行けなかったり、強引な藪コギを余儀なくされたりしてしか山頂に達することが出来なかったからである。

1991年9月 我孫子登山倶楽部「利根川流域50山」編集委員会


W 利根川流域50山  TOP 

 創立10周年企画としての前期50山も1988年の11月に完登し、記録文集の出版や専門雑誌への寄稿が終了すると加熱していた同地域への取組みも沈静化してくる。当時の会員は50名程度であり、リーダー数も少なく年間の例会山行も14山程度であった。しかも南北アルプスや東北の山など行きたい山岳は多いのに、地味な利根川流域だけに積極的に取組むゆとりは無かった。

それでも会が利根川流域と縁が切れずに細々と繋がったのは、1991年に崙書房出版株式会社より「利根川流域50山」を出版して、一般書店で販売したいという企画が持ちあがったことにもよる。一般書店で販売するとなると、今までの記録文集のように会員のみの自己満足だけでは完成しない。再調査や写真撮影、編集作業等など煩わしい作業が加わってくるが、編集委員会や出版社の協力を得て199110月に発行することが出来た。

 119日には読売新聞全国版にて「我孫子の実年登山倶楽部、異色の山行集を出版」との記事も掲載された。山岳雑誌・山と渓谷や岳人、プレジデントといった一般誌にも紹介され、我々の倶楽部が一気にクローズアップされた時期である。この時期になると、会員や推進リーダーも徐々に増加してきて、利根川流域への関心も盛り上がってきた。

 同年11月には残された50山へ取組むために、新しく「続利根川流域の山選定委員会」が発足して、山やルートの選定作業が開始された。10周年企画から継続の委員もいたが、積極的に活躍したのは前期50山の終了後に入会した新しい会員であった。第一回の委員会では、甲府・長野・宇都宮・水戸・高田・日光の20万分に1図を元に339山を選出し、更に後期の基準で93山に絞り込んだ。前期50山に選ばれた山は主にポピュラーな名峰名山が多く、ガイドブックや山岳雑誌から情報を得るにも大した苦労をすることもなかった。しかし後期の50山は登山情報が極端に少なく、山の選定段階から困難な作業が要求されることとなった。それは前期の50山選定において著名な山は登られてしまい、知名度・標高・独立峰のどれをとっても地味な山が選択の対象となってしまうのである。

 決して山そのものに魅力が無いわけではないが、どうしても前期50山に比べると見劣りをしてしまうのである。一部の会員のみが対象であれば問題はないが、全ての会員が目標として取組むためには登頂意欲や完登の充実感も考慮する必要があった。そこで選定に際してはルートや登山方法の見直しと共に、次ぎの基準を重視した。

 それは山稜上の主峰かそれに近い山、独立峰や著名峰、山名の由来に興味を引く山、山容に特徴のある山等である。そして、選ばれた山を会の例会山行として月に1回程度組込むという作業も加わった。だが実際に選定作業に入ると、その困難さと反比例して作業に熱がこもって来た。つまり元来が山好きの集団であるために、持ち寄った資料で未知の山を地図上で拾っていくにつれ興味が高まってくのは自然の成り行きであった。

 選定委員会による選定作業は、その後数回行なわれ、三角点の有無や魅力度などを再考した結果、予備を含めて55山に絞り込まれた。選定の中で最後まで決定が遅れたのは、利根川本流の源流域の山々であった。前期50山で笠ケ岳・至仏山・大白沢を経て平ケ岳、そして丹後山から大水上山まで登頂しているので、残る源流域は剣ガ倉山と越後沢山である。

 この付近は利根川本流源流域の中で、大水上山を頂点として越後沢山と剣ケ倉山がほぼ三角地帯を形成している。前期で頂点の大水上山が選ばれたので、今回は越後沢山と剣ケ倉山が選ばれるのには異論のないところであるが、稜線のルートが全く不明であった。方法としては沢登りが一般的で、会の技術レベルとしては問題は無いが、利根川流域の山を選定する条件としては一部の会員のみでなく多くの会員が難なく取組める事である。沢登りなど一部の経験者のみを対象とする目標は避けたかった。結果的には経験者が対象にはなるが、残雪期に稜線から登頂する方法をとり、上記の2山の他に主稜線からは若干外れるが赤倉岳を選出することとなった。

 利根川本流の他にも、支流の鬼怒川や渡良瀬川・片品川・吾妻川・烏川・神流川の流域から出来るだけ偏らないように選んでいった。そんな中で、今回意外と選考対象が多かったのは、吾妻川中流域と神流川上流域であった。吾妻川中流域では、菅峰・松岩山・高田山・大高山、神流川上流域では、諏訪山や天丸山など、一般には馴染みのない興味を引く山が選出された。支流最大の鬼怒川流域でもルートは不明であるが明神ケ岳や枯木山や黒岩山など栃木群馬の県境尾根、四郎岳や錫が岳など静寂境の山々が選定された。

 そして次ぎの作業としては、ルート選定・季節・登頂メンバーなどと、出来るだけ多くの会員が参加できるよう十分な討議が重ねられた。そんな中で特に情報が不足していたのは、利根川本流では赤倉岳・剣ケ倉山、谷川本谷の阿能川岳、栃木福島県境の明神ケ岳・枯木山・黒岩山、栃木群馬県境の錫ケ岳・四郎岳であった。また記録はあっても、沢登や藪漕ぎで数人の経験者パーテイで登頂したもので、我々の求めるレベルではなかった。最終的には、枯木山・明神ケ岳・四郎岳・荷鞍山は沢登りとせざるを得なかったが、残りは残雪利用とした。こうして最終的に絞り込まれた対象リストと計画書は1992年3月の通常総会に諮られ後期の50山(続利根川流域50山)への取組みが決定したのである。

 選定委員の役目は、総会での決定を最後に終了し、以後は「利根川流域推進委員会」に引き継がれて行った。その後は会の例会山行として組込まれて、紆余曲折はあったが3年間で延べ参加者が600名という盛り上がりの内に終結した。人数だけでいえば、前期50山に比べて約7倍の仲間が参加、1995年6月に難航した鬼怒川流域の枯木山を最後に終了した。

  終わってから振り返ると、利根川流域の100山を意図的でなく前期と後期の2回に分けたのは正しい選択であった。おそらく最初から100山という大きな目標を決めて、会の例会山行などに組込んでいたら途中で挫折していたに違いないと思う。

 前期50山でも「共通のテーマを持とう」「ホームグランドの山を持とう」という多くの会員の指示を得てスタートした目標ではあったが、実際に登り始めてみると大変な重荷になってきたのである。ブランド志向の人達が余り聞いた事も無い地味な山ばかりに、拒否反応を起こして去っていった会員もいた。前期50山の最後の年になると、参加者が1〜2名の時も有り会員の関心度も下がって行った。

 しかし前期で著名な山は登り尽くした筈の後期では、参加者は前期に比べて7倍強となり、後半に移っても顕著な減少はなかった。これは推進委員による定期的な報告やリーダー会の地味な努力があり、多くの会員に熱意が通じた結果達成されたものである。 

 利根川流域への取組みは、1985年に奥日光の女峰山からスタートして以来、10年間を要した事になる。同じ山域に10年間も拘るなど今時悠長過ぎるとの意見もあろう。しかし我々は一部の推進者のみでなく、会員の総力で達成することに拘り無理をせずに取組んできた。初心者も含めて600名の参加がありながら、無事故で達成できたのも幸いであった。

 多い時は50名余りの参加者が貸切バスで、又ある時は初心者を含めた女性パーテイが初めて藪漕ぎを余儀なくされるなど難航し、3年目にやっと頂上が踏めた山もあった。

利根川流域に取組んで感じたことは、流域は非常に広大であり喧騒のない静かな山岳が多いことである。反面、最近では登山者が減少してコースの荒廃が進んでいる。ルートも完全に消えて、強引に藪と苦闘してやっと登頂できた山も多かった。また先が見えていながら頂上を目前に撤退して、翌年に再登頂した山もあった。10年間利根川流域に取組んでの最大の成果は、会員が一つの目標で結束出来たことや静かで魅力的な山が発見できたことである。また最初は企画選定委員による地図上での選定であったため、実際に登頂してみると魅力や記録価値が見つけ難い山もあった。しかしこのような山でも、ルートや季節、他の稜線と組合せることで新たな魅力を引き出せることも発見できた。今後は倶楽部の永遠の課題として新たな目標を見出すことになるであろう。


X)利根川流域百山一覧表とイラストマップ  TOP

@前50山一覧←ここをクリック

A続50山一覧←ここをクリック

B続々38山一覧←ここをクリック

C前50山イラスト←ここをクリック  大型版イラスト←ここをクリック

D続50山イラスト←ここをクリック  大型版イラスト←ここをクリック

E続々38山イラスト←ここをクリック  大型版イラスト←ここをクリック


Y)その後の取組み  TOP

 前期と後期で利根川流域100山を終了した後、私たちの紀行記録を雑誌「岳人」や「山と渓谷」に次々と発表していった。
創立20周年事業として続利根川流域の50山は、1997年に記録文集を発行したことで終結をした。
その後はリーダー委員会を中心に、今後の利根川流域への取り組みをどう継続するか幾度かの話し合いがもたれた結果、同山域を我孫子登山倶楽部のホームグランドとして末永く付き合っていくことが総会にて決定されている。
また、1996年からは利根川の各支流域を精踏することを目標に、第一回は「鬼怒川流域」第二回は「片品川流域」の山へ、夫々2年間をかけて取組んできた。
鬼怒川流域の山といえば、一般的には夫婦淵温泉よりより奥の鬼怒沼から福島県境にかけてのイメージが強かったが、この計画はその手前の栗山村付近の山にスポットを当てたものである。
ミツバツツジに全山が染まる夫婦山、明神岳や馬老岳などの忘れ去られた山稜へ精力的に取組んでいった。
次企画の片品川流域の山も同様である。
尾瀬の玄関口である片品村があまりにも有名になりすぎたためか、途中の利根村や川場村付近には静かなる山域が残されていた。
県境尾根や白根笠が岳など、残雪を利用しなければ踏査できない山域に挑戦している。
その成果は、雑誌「山と渓谷」の1997年11月号と2001年1月号に、地域踏査紀行として6ページ程度掲載されている。
また山頂そのものは利根川流域ではないが、男鹿山塊の最高峰である大佐飛山へも、数回の試登の後に登頂できた。
その成果の登頂紀行は、1999年3月号の岳人に掲載された。
その後は会企画としてはないが、最近ではごく自然に例会山行にも取り入れられるようになった。
続50山が終了した1995年以降でも100回以上も例会山行として実施されており、もうすっかりホームグランドが定着した感じである。
会員の中には自分のライフワークとして積極的に取組んでいる人もいる。
例えば西上州・神流川流域を縄張りにしているO氏、紅一点ながら執拗に栃木の山・安蘇山塊を追い続けているTさんである。


Z)今後の目標  TOP

今まで登頂した138山は全てが秀峰というわけではなく、特別な魅力ある山でもない。
また限定された経験者だけが登頂できるというハイレベルの山稜でもない。
最大の魅力は日本百名山などと大きく異なり、今でも静寂な自然を残している。
利根川流域の山は今後も季節やルートを選べば、新たな魅力が発見できる自然の宝庫である。
今後の夢は、利根川最源流の奥利根湖から沢添いに遡る、剣ケ倉山や刃物ケ崎山、また大水上山からの稜線を南下する、国境尾根縦走などの再難関コースである。
登山道もないために、有雪期のみのエキスパートの世界であるが挑戦者に期待したい。(完)


以上